指揮者コラム第5回「指揮者と指導者」

「指揮者」と「指導者」。
似たような単語ですが、どう違うのでしょうか。

昔、ある偉大な指揮者の先生が、
「ピアノが弾けない人間は指揮者になるな」
ということをおっしゃっていました。
ああ、じゃあ僕は指揮者じゃないんだなと思いました。笑
そしてそれなら、みなさんの前で指揮を振っている僕は、一体何者なんだ?と思いました。

私が昔、指揮の勉強をしているときのことでした。
楽譜を見ながら、先生から、
「君はこの曲をどう振りたいと思っているのだ?」
と聞かれ、私は大いに戸惑いました。

・合唱団はどんな合唱団なんですか?
・人数は多いんですか?少ないんですか?
・お酒が好きな人は多いんですか?
・団員同士は仲良しですか?
・練習回数は何回あるんですか?
・何のステージに乗せたいんですか?

それがわからずに振れるわけがありません。
合唱団員が何を求めているのかを感じ取り、それを具現化するのが私の役割だからです。
もちろん、私にも見えている絵はあります。その絵が、聴き手の皆さんにも見えればいいなと思って振っています。
ただそれは、歌い手の皆さんと私が、見ている絵を共有できていることが前提です。
歌い手の皆さんが見えていないものをやらせても、何も生まれないのです。

そもそも、私は昔から「指揮者」というものを怪しいと思っていました。
あいつ、何もやってないじゃんと思ったことありませんか?
小学生の頃、「指揮者」の珍妙な動きに、笑いを噛み殺すの大変じゃありませんでした?

他の例を挙げます。
演奏者が独りで街頭に立ち、空き缶を置いて演奏をします。すると、空き缶にはいくばくかの小銭が入るでしょう。
しかし、指揮者が独りで街頭に立ち、指揮をブンブン振ったとしましょう。
…誰を足を止めないどころか、多分、通報されるんじゃないですか?
「指揮者は、演奏者がいてこそ、初めて指揮者たりえる」のです。

さらにへりくつをごねます。
「指揮者」の「揮」の字は、「まき散らす」という意味があります。
なんだか納得です。
指揮者って、いろいろまき散らしてますよね。
すみません。いつもまき散らしちゃって。

「指揮」というのは、一方的な「指」令を「まき散らす」ことです。私はそれが、健全な音楽であるとは思えません。
では、私はどうしたいのか。

私は、「指導者」でありたいと思っています。
歌い手が目「指」す方向に「導」く人間でありたい。進むべき道がわかるまでは、皆さんの前に出て道案内をします。
しかし、皆さんがのびのび歩き出せば、私は列の一番後ろにいきます。
そして、全体を見ながら、はみ出した人を元に戻したり、遅れた人を励ましたりしたいのです。

私は、私に指揮を振らせてくださる人たちがいることに感謝しています。そして、これだけの音楽を、ともに作れることがしあわせです。
これからも、ともに音楽の道を歩みましょう。
私も、指導者として、皆さんを導けるよう、精進していきます。

※当団常任指揮者、平田由布による不定期連載コラム第5回です。
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