第10回「ただいま。」~新型コロナウイルス感染症に寄せて~

「夜明けの来ない夜はないさ」
 
『瑠璃色の地球』より

2年間の「おつとめ」を終え、遠く南の島から帰ってきました。
しかし、団員にただいまのあいさつもすることもできず、自粛の毎日を送っています。

「今は、帰ってこない方がよかったんじゃないの?」そんなことを言われたりもしますが、全くそうは思いません。大切な人達と、地続きでつながっている場所に戻ってきたということ、自分のことを本当に表現することができる場所に戻ってきたことが、僕にとってどれだけ幸せなことか。そして、どれだけの救いであるか。

少し偉そうな物言いになりますが、「会いたい人に会えない」「欲しいものが手に入らない」「のびのびと日々を過ごすことができない」。そのつらさは、誰よりもわかっているつもりです。しかし、夜明けの来ない夜がないように、きっとまた、明るい朝日が昇るときが来ます。そしてその時は、失っていたものの大切さを知ることができる、最高の瞬間となるのです。だから、信じて、今は耐えて、待ちましょう。

 合唱団の皆さんへ、今の僕が考えていることをお伝えします。今、皆さんが求めていることかどうかはわかりませんが、夜明けを信じて、同じ方向を見て、皆さんと歩いていきたいと思っています。

1. 演奏会をやりましょう。 
 やりたくてもやれなかったこと、自粛していたこと、望んできたことを、ぱあっと開放することができるような演奏会を開催します。もちろん、今の状況が落ち着いてからです。だから今を、「演奏会の準備をする期間」と位置付けたいと考えています。

2.選曲をいっしょにしましょう。
 いつも僕に一任してくださっている「選曲」。これを、皆さんといっしょにしてみたいと思います。もちろん、皆さんがご存知の通り、僕は自分がやりたい曲しかやりません(笑)。ですから、それを少し広げて、皆さんが選曲に参加することができるような工夫をするつもりです。具体的な方法は、また後日示します。

3.蓄えましょう。
 今、蓄えることができるもの、いっぱいあると思います。

(1)「技術」を蓄える。
 私から、自宅でもできるような練習課題を提供しようと思っています。
 また、今、始動している「おうちで歌おう♪プロジェクト」。厳密に言うと合唱とはまた少し違うのかもしれませんが、これにも積極的に参加することで、歌から離れないメリットや、自分の声を知るメリットなど、たくさんの蓄えができることでしょう。
(2)「お金」を蓄える。
 演奏会の開催には、お金が必要です。下世話な話のようですが、今、思うように活動できないということは、逆に金銭的にはチャンスと捉えることもできるのです。「名なしに行ったつもり貯金」など、してみてはいかがでしょうか。もしかしたら、力を合わせて、「いつかいっしょに歌うため基金」なんて共同作業も、実現するかもしれません。
(3)自粛している“幸せ”を蓄える。
 ウイルスさんには、ずいぶんいろいろなことを我慢させられていますが、「ステイホーム」していても、いろいろと幸せなことは起きていると思います。
 子供ができた。息子(娘)が志望校に入学した。気が付いたら結婚していた(通称:マ○○婚)。宝くじが当たった。島から帰った。…
 このご時世に、それを大々的に発表し、宴会を開いて浮かれるわけにもいかず、くすぶっている“幸せ”があったら、それを蓄えてください。いつか合唱団が再開できたとき、皆さんで一気にそれをまとめて共有し、爆発させましょう。爆発って何かって?そんなことは後で考えればよいのです。

以上。

 私は、以前よりほんの少しだけ、待つことが得意になりました。そして、「名前のない合唱団」のことが大好きです。今は、皆さんの健康を、ただ願います。待つことは苦ではありません。どんなに時間が空いても、きっとまた皆さんと、最高の音楽にチャレンジすることができると、確信しているからです。

 「名前のない合唱団」はね、家族みたいなものだから。
 今は、別々の家で「ステイホーム」していても、ちゃんとまた、みんなが帰ってくることができる「ホーム」なんです。

大丈夫ですよ。僕も、帰ってこられたんですから。またみんなで会えたときに、言いましょう。

「ただいま。」と。

平田 由布

※当団常任指揮者、平田由布による不定期連載コラムの第10回として、内地復帰のご挨拶と、昨今の状況に向けてのメッセージをお送りいたしました。
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指揮者コラム第9回「変わること、変わらないこと」

「慣性の法則」という物理の用語があります。動いているものは動き続け、止まっている物は止まり続けるという運動の第一法則です。走っている乗り物の中に乗っていることを想像してください。その乗り物には屋根がありません。あなたはボールを持っています。乗り物のスピードが一定の速度で走っているとき、そのボールを真上に投げ上げるとどうなるでしょう。そう、ボールはそのまま投げ上げたあなたの手の中に、再び戻ってきます。

それでは、次はどうでしょうか。同様に乗り物のスピードが一定の速度で走っているとき、ボールを真上に投げ上げます。しかし今度は、投げ上げた瞬間に急ブレーキをかけて、乗り物を急にその場に止めてしまいます(あなたも固定されており、進行方向には吹っ飛ばず、乗り物にくっついていると捉えてください)。さて、投げ上げたボールはどうなるでしょう。投げ上げた瞬間にボールは、「慣性の法則」によって、乗り物の進行方向と同じ方向に進みます。しかし、乗り物の方はその場にストップしてしまうため、ボールが戻ってくるべき地点に乗り物がないため、投げ上げたあなたの手元には戻ってこないということになります。

乗り物を「合唱団」、ボールを「団員」だと考えてください。合唱団が動き続けていれば、一時的に離れていた団員が戻ってきたときも、「変わらず」活動することができます。しかし、合唱団が動いていなかった場合、団員が帰ってきたときに、その団員は、「なんだか変わってしまった」という印象を受けるでしょう。

合唱団の活動が楽しければ楽しいほど、「変わらない」姿でありたいと願い続けることが多くなるでしょう。しかし、私は、集団が「変わらない」でいるためには「変わり続ける」必要があると考えます。集団を取り巻く環境も絶えず変化しているのですから、当然のことです。合唱団にかかわった人が、一度合唱団を離れ、もう一度この合唱団に戻ってきたときに、「この合唱団はやっぱり変わらないですね。」と笑顔で言ってもらえるように、指揮者の私も、変化・進化していきたいと思います。

※当団常任指揮者、平田由布による不定期連載コラムの第9回をお送りしました。
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指揮者コラム第8回「誰がため」

One for All , All for One .

誰でも聞いたことのあるこの言葉。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」でよく知られており、歌にもなっています(『友だちはいいもんだ』)。ただ、この訳、誤訳であるとも言われているようですね。本来は、「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために」であったとのこと。「みんなが一人のために」という姿も私は好きなので、ここでは、どちらがより正しい訳であるかということを論じるつもりはありません。

合唱団の目的は、言うまでもなく「合唱をすること」ですが、本当にそれだけでよいのでしょうか。合唱団の目的が「合唱をすること」だけだったとしたら、「合唱をする」力が合唱団に追い付かなくなったと感じた団員は、当然その合唱団での“有用感”を失ってしまいます。それはとても悲しいことです。

小学校教員をやっていて感じたのは、子供たちは皆、「何かの役に立ちたい」「必要とされたい」という“承認欲求”をもっているということでした。これは、子供に限らず大人にもあるようで、大人もその“承認欲求”が満たされることで、次の活動の意欲へとつなげているように思えます。

ちなみに私は、その“承認欲求”が異常に強い人間なので、自分がうまく活躍できていないと感じたときには、「平田を効果的に活用することのできない集団が悪い」と考えます。なんととんでもなく自尊感情の強い人間でしょうか。そんな感じだからこそ、自分のかかわる集団(学級・合唱団…)に対しても、「この集団で自分は何かの役に立っているのだろうか…」と誰かに思わせるのは、その個人が悪いのではなく、集団の方に問題があると考えるくせがついているようです。

さて、「合唱団は一人のために」、何ができるでしょうか。私は、合唱団自体が、一人一人の団員に対して、様々な居場所であったり活躍の場であったりを提供できるようになったらよいなと、常々考えています。新しい団員が一人入ってくれば、また一つ可能性が増えたと考えるべきなのです。一人一人は好き勝手なことをやっているだけなはずなのに、いつの間にか、それが全て、「合唱団のために」なっている。そして、そうやって集まった力が、単なる「合唱をすること」だけにとどまらない、大きな力になればよいなと考えています。

※当団常任指揮者、平田由布による不定期連載コラムの第8回をお送りしました。
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指揮者コラム第7回「身の丈」

『俺のポケットには大きすぎらぁ。』 ルパン三世

時事ネタに走るわけではありませんが、今、世の中、特に私の住んでいる教育の世界で、「身の丈」という言葉が走り回っています。あまりよろしくない意味で。

ただ、ここで、英語民間試験の延期の話をしだすと、いつまでたっても音楽の話にならなくなってしまうので、それはまた、飲み会ででも。

私は、「身の丈」という言葉に、悪い印象がありません。それは、父がよく使う言葉だからです。父は私が若い頃よく、「謙虚になれ」と言っておりました。そして、自分が与えられたステージを一つ一つこなし、フルートともに少しずつ、今でも、「自分の身の丈に合った音楽ができればそれでいい」と言い続け、確実に芸術家の階段を上り続けている人です。

僕の超えられない壁として今も存在し続け、その背中を追い続けていたおかげで、私もこんなに謙虚な天才指揮者になることができました。

「身の丈」とは“自分が現状でもっている力”だと思っています。これを正確に把握するためには、高い自己分析力が必要です。「身の丈」であまりにも届かない課題を自らに課したところで、モチベーションは上がりません。反対に、「身の丈」にあまりにも満たない課題を繰り返しやっていても、自己の成長はのぞめないのです。

すなわち、理想的なのは、「身の丈」より少し上の課題を自らに与え続け、それを乗り越えることで少しずつ「身の丈」を伸ばしていくことなのだと思います。

我々、名前のない合唱団も、長い年月をかけて、少しずつ「身の丈」を伸ばしてきました。そんな合唱団の「身の丈」を正確に理解し、育て続けることができる常任指揮者でありたいです。

平田 由布

※当団常任指揮者、平田由布による不定期連載コラムの第7回をお送りしました。
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指揮者コラム第6回「表現者としての義務と権利」

『芸術は、命令することが出来ぬ。芸術は、権力を得ると同時に死滅する。』太宰治

学校教員をやっていると、「話をする」機会が多いです。日々、子供たちに話をすることから始まり、学年の先生たちが集まって打ち合わせをしたり、保護者に電話をして連絡をしたり…。この「話をする」ということも、表現の一つだと思っています。

しかし、世の中を見ていると、どうも私とはタイプの違う、「話をする」人を見かけることがあります。私にとっては、例えばそれは、とある専門家の講義であったり、とある政治家の政見放送であったり、とある学校の先生のおもしろくない授g(自主規制)が該当します。これらに共通することは何かというと、本人は一生懸命話をしているつもりでも、聴き手に全然伝わっていないということです。さらに、人前に立っているというのに、聴き手を意識せずに、独り言のようにしゃべっている方さえいます。このような方々にとっては、“「話をする」ことで何が伝わるか”が重要なのではなく、「話をする」こと自体が重要なのでしょう。私は、ひねくれ者なので、こういう方々の話を聴いていると、どうも不愉快になってしまいます。「なんだよ。頭のいいやつが上から物を言ってらぁ。」と、受信アンテナをポキリと折ってしまい、その後の話が入ってこなくなってしまうのです。

さて、本題の音楽です。私は、外国語の曲を積極的に取り扱いません。その理由はなぜかというと、外国語の曲は、日本人に聴いてもらう場合、どうしても外国語の知識を強いることになります。演奏会であれば、パンフレットに歌詞と和訳を入れて対応することはできますが、そうすると聴き手は、いくばくかの集中をパンフレットに割くことになってしまいます。外国語曲の中にも、歌詞を超えてメロディーラインだけでも伝えたくなるという魅力的な曲も確かに存在しますが、それでも自分が感じている感動と同じ感動を伝えられるかどうか、不安になってしまうのです。
したがって、超絶技巧の楽曲、日本語とは言え解釈が難解な楽曲なども、同様の理由から、私は選曲する前にかなり頭を悩ませます。“この曲をかみ砕いて表現することはできるのだろうか”“この曲は果たして聴き手に伝わるのだろうか” …。ここで前向きな結論を出せないのならば、その曲を選曲することはできません。

自己の中で表現が完結してしまわないように。自己の中にある思いを表現する権利を得た表現者は、表現を受け取る者のことも常に考える義務があると、私は考えるのです。

※当団常任指揮者、平田由布による不定期連載コラムの第6回をお送りしました。
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