指揮者コラム第4回「歌声か歌心か」

『正義なき力が無力であるのと同時に、力なき正義もまた無力なのですよ。』

アバン=デ=ジニュアール三世の名言です。え?誰だか知らないって?それはよくありませんね。ちゃんと勉強するようにしましょう。

「歌声か歌心か」論争が始まると、僕はいつもこの言葉を思い出します。
そう、「きれいな歌声を出す技術」と、「豊かな表現を生み出す歌心」と、どちらが大切かと問われたら、「どっちも大切」で、ファイナルアンサーなんですよね。

しかし、どういうわけかこれが二択の論争になりがちです。おそらくは、ストイックに技術だけを追い求めていると、自由に音楽を表現する柔軟性がなくなってしまうのではないかという危惧から来ているのではないかと思われます。

もし仮に、完璧なハーモニーが音楽の本質であったとしたら、音響機器を使って、揺れのない音を、周波数単位で積み上げていくことで、人間は感動するということになります。しかし、実際にはそんなことはないわけです。

いかにも粗削りなハーモニーでありながら、聴く者が涙するという音楽があります。中学校の合唱コンクールなどはよい例でしょう。多少ハーモニーがズレていようが、そのひたむきな姿勢が音に乗り、人の心を打つという現象が起きます。では、大切なのは歌心なのか、という話になるのですが、そういうわけでもありません。先の中学生の演奏を、CDに録音して、その中学生を全く知らない人が聴いたらどう思うでしょうか。「もう少しがんばりましょう」という感想をもつかもしれないのですから。

「歌心なき歌声が無力であるのと同時に、歌声なき歌心もまた無力なのですよ。」とでも言ってみましょうか。
ストイックと自由は、矛盾するようで矛盾しない不思議な関係だと思っています。どちらかを否定してしまったら、音楽の魅力を半減してしまうように僕は思えます。技術が上達すれば、表現できる音楽の幅が広くなります。表現できる音楽の幅が広がれば、もっと音楽が制限なく自由になります。

僕のタクトは、自分で言うのもなんですが、非常にストイックです。「団員の誰一人欠けることなく、みんなで技術が上達していくにはどうしたらよいか」ということに対してストイックです。だからこそ、僕の音楽はとても自由なのです。

※当団常任指揮者、平田由布による不定期連載コラム第4回です。
過去の記事はこちらから↓


次回もお楽しみに(^^♪