指揮者コラム 第2回「人は力」

合唱団を結成してから、一貫して大人数の合唱団にこだわり続けてきました。とにかく、人を集めることに一番力を注ぎ、「練習回数1回なんですけれど、本番に乗ってもいいですか?」と聞かれても、むしろ、「なぜ乗らないんですか?」と問い返してきました。

もちろん、洗練された音楽をするために、パートの音色統一の精度を上げる必要はありますし、人数が多くなれば多くなるほどそれは困難になり、練習回数が少なければ、その難易度はさらに上がります。ですから、多く練習に出られない人が引け目を感じる気持ちもわかりますし、一度合唱団から足が遠のいた人がもう一度同じ合唱団に帰るのが難しくなるというのも、よくわかる気がします。

それでも、僕は、「とにかく人をかき集めよう」と断言します。なぜ僕は、そこまでして大人数の合唱団を作りたいのでしょうか。

まず一つは、単純に、「できることの幅が広がる。」ということです。4人のffで100人のffを超えることはできますか。3人で四部合唱はできますか。100人いれば、100部合唱までできるんですよ。乱暴に言えば「大は小を兼ねる」のです。100人のppの緊張感を体験したことはありますか。背筋まで凍り付くようなあの表現が、僕は大好きです。

また、人が集まるということは、そこに、様々な特技が集まるということです。絵が描ける人がいる。パソコンの得意な人がいる。お金の計算が得意な人がいる。編曲ができる人がいる。キーマカレーを作る人がいる。それらが、すべて合唱団の糧となる上、合唱に飽きたときにできることの幅も広がるのです。こんなに素晴らしいことはありません。

何より、歌を歌うということは、思っているよりも“不安”を伴うものであり、「僕、音が外れている気がするけど、歌っていていいのかな…。」「私の声、変に思われていないかしら…。」などという思いは、誰しもが経験したことがあるでしょう。人が増えれば増えるほど、一人にかかる責任は軽減されます。練習の時、人数が多いとほっとするでしょう。

極端な話、歌ってなくてもよいのです。ステージにつっ立っていてくれれば、一緒に練習で笑ってくれれば、それがすなわち合唱団の力なのです。50人になったら100人。100人になったら200人。僕はたくさんの仲間と共に、音楽を創りたいと思っています。

 

「来るもの拒まず、去る者逃がさず。」

 

※当団常任指揮者、平田由布による不定期連載コラム第2回です。
【第一回】
次回もお楽しみに!

指揮者コラム 第1回「“手段”としての音楽」

「あなたはなぜ歌うのですか?」

そう問われたらどう答えますか?
「歌があるからです」などと、登山家のように答えたくなります。

自分は、音楽を通じて人と人とがつながることが好きです。
当然、演奏家⇄聴衆のつながりもそうですし、演奏家⇄演奏家のつながりもあるでしょう。
ステージを作るとなると、音楽と違う世界の人と触れることもありますし、楽曲の解釈の中で、詩人や作曲家と語ることもあります。
自分が教員をやっているだけでは出会うことのなかった人に会えたり、通じ合ったりすることができることに魅力を感じ、音楽をやっています。

ですから、同じように人と人とのつながりができるのであれば、媒体が必ずしも音楽である必要はなかったのかもしれません。
たまたま僕は“歌(合唱)→指揮者”という流れに乗らせていただきましたが、最初に出会ったものがカバディであったとしたら、僕は「名前のないカバディ集団」を作っていた可能性も大いにあると思っています。

「最高の音楽を作る」という目的が魅力的であることも感覚的にはわかるのですが、それでも僕は、やはり音楽を「手段」と捉えていて、それ自体を「目的」とはしていないみたいです。
「名前のない合唱団の音楽」を使って、何をするのか。「名前のない合唱団の音楽」から何が生み出されるのか。それが毎回、楽しみでしかたないのです。

(当団常任指揮者、平田由布による不定期連載コラムです。次回もお楽しみに!)